目標と達成の積み重ね。

遷延性意識障害の母と過ごした7年を振り返り、今だから綴れるお話です😊

回顧9

リクライニング車イスに移り、ベッドを離れる時間が増えたことがとても嬉しく励みになった😌回復期では若い女性のOT、PTの先生と小学生の子供さんのママであるSTの先生、そして、小柄だけど元気いっぱいのベテラン女性看護師が担当して下さり、朗らかな雰囲気が整った😃

リハビリ中にも以前の母の生活に関心を持って声をかけていただき、梅雨明け間近な数日後には「今日は涼しいから中庭に出ましょう♿」と言われた。あいにく、私は仕事に向かう時間で付き添えず、残念がると、「これから何度でもチャンスはあります。今日はスタッフに任せて下さい💪お仕事いってらっしゃい🙋」と言ってもらい、嬉し涙で出勤した🌱

平行して、ほんわりした雰囲気の先生の口腔リハも関わらせてもらい、好きな食べ物やおやつのことを面白おかしく話し、その延長線には「舌の動きが活発で、唾液分泌もあるから嗜好品で刺激を与えていきましょう💪」との説明があった。
日課の散歩をしていた頃は、休憩の飴玉を楽しみにしていたことを参考に、棒付きキャンディ🍭に挑戦することになった✨

母のための買い物が楽しくて、沢山の🍭を買ってしまった😆

不安はどっかに引っ込み、楽しみが増えていった頃を思い出す😌

回復8

内科病棟個室で一週間過ごし回復病棟へ移る時、大きな一歩と感じた✨
明るい四人部屋は知らない人ばかりだが、リハビリに励む仲間という意識が芽生えた。

転院先の主治医とは最初の診察で『植物状態の人にどんな期待を持っているか知らないがリハビリの指示は出してます。』とカサカサしたようなことを言われた。
半年間という期限つきの先生とは信頼関係を築くより、当たり障りなくやっていこう、別の支えを見つけようと思ったのが仲間意識の芽生えかもしれない😌

それまで病衣かパジャマだった母が、回復期病棟では日中を普段着で過ごす姿に、公園のベンチで日向ぼっこをしてるように可愛らしく、とても感激した✴

回顧7

『大変』でも、冷静に、朗らかに過ごすのを目標に決め、個室の母に会いに行く🚪

昏睡から目覚めた母は、左手の動きが活発で、表情穏やかな時は左手もそよ風のようにひらひら振っている😃何らかの不快感のある時は激しく額を掻いたり、ベッド柵を強く揺らすこともあった。

その日は、梅雨の合間の晴れた日で朝から日照りが強かった。「おはよー‼今日は暑いよ😲」と声をかけながら母に近付くと、左手を激しく振っていて、顔は赤く息が荒い。すぐに手を握り頬に触れると熱く汗ばんでいる。
室内を見渡すと東向の部屋に強い日差しが射し込んでいたことがわかる。
母自身では押せないナースコールを私が押し、看護師が来て下さった。熱中症に準じる処置がなされ、説明を乞うと、『朝の巡視でカーテンを開けて以降直射日光が入ったための症状』と言われた。こうなる予測はしていなかったということだ。


朗らかに過ごす目標が揺れてしまう。

先ずは、冷静で居られたこととひどい症状にならずに済んだことを受け止め、母の気持ちになって進もう👣

母の左手で会話をした日を思い出す😌

回顧6【回復期病院】

救急搬送から約三週間後、市内の回復期病院へ転院。
内科病棟個室に入り、その後5日間は個室でひたすら孤独を感じる時間だった。
車イス乗ったり、看護師の刺激があったり、大部屋の賑やかさが懐かしく、涙ぐんでしまう😢

これは病院の仕組みで仕方ないことなんだろう。でも矛盾を感じた。回復に向かっていたのが数日で、停滞どころか衰退になるようで焦った💦

やっとリハビリが始まり、つい、リハビリの先生に、意志表示出来ない遷延性意識障害の家族としての思いをぶつけてしまった。

焦ってはいけないとわかりながらも、今日が最期の日になるのでは、という思いと、希望を持ち続ける決意が自分の中でぶつかる。
環境の変化に慣れなくてはいけないんだ。

大きな変化に慣れるまでを『大変』と言うんだと気付いてからは、少し気が軽くなった💡

後悔

今、医療事故で妹さんを亡くされた男性の番組を見た。治ると説明を受けた病院で、大事な人を亡くした絶望から、よく立ち直ってくれたと涙ぐんでしまった。

私の母は植物状態になる3ヶ月程前に、半身麻痺の症状が発現した。見守り散歩中だった為、すぐに、救急車要請したが本人の搬送拒否(羞恥心から)があり、救急隊員は引き上げてしまった😵💧麻痺の足を引きずる母を抱えるように自家用車に乗せ、市民病院へ向かった。

その日は土曜で当番医師の診察。麻痺は見当たらないから処置なく経過観察の判断で帰宅を言い渡された。今までの一過性虚血発作の場合も血栓溶解剤の点滴をして回復してきたから、今回もそのつもりだったが、当番医師は「後日主治医に相談して。」と一蹴だった。

その後は半身麻痺が分散するように単発的にいろんな不調が起き、6月の大きな梗塞に繋がった。

もし、救急搬送していたら…、もし、治療がなされていたら…と後悔し、医療不信の3ヶ月だった。

6月、母は踏ん張ってくれた。医療不信を忘れさせてくれる程に踏ん張って、色んな経験をさせてくれた。

番組のおかげで思い出した過去です😌

回顧5

急性期病院の間にも、言語聴覚士理学療法士作業療法士の先生が関わって下さいました😃母の傍らで、独り言のようにぶっきらぼうに(笑)話しかけている私にも、上等な合いの手を入れてくれる気さくな方々でした💮

先生方は普段通りの業務として意志疎通がない母にもリハビリを施して下さるのですが、特別に手厚くしてもらっているように解釈していました😌
入院患者さんの中には『どうせ意識不明なら何をしても無駄だろう。その時間を骨折の自分に充ててくれたら早く退院出来るのに🔥』と呟く人も居たからです😌
ショックと同時に世間を知った瞬間でした😲

回顧4

母は、トトロのような大きな、大きなアクビをするようになっていました😌
ある日、大きく口を開けたまま『どうしよう‼』みたいな母の視線に気付き、頬を撫でるとアゴが外れていて、ビックリしてすぐ、看護師さんを呼んだ😱

看護師さんは『ガツン❗』と顎関節の音がするように下からアゴを押す感じだった。閉じてよかったと思うより、痛そう…と感じてしまった💦看護師さんには『ありがとうございました』と言ったものの、面会終了時刻間際にまたアゴが外れて、ナースコールを躊躇った😅

急いで現介護師の友達に電話して事情を話すと『耳下腺辺りの関節を指先で手前にゆっくり引いてみて』と教わった。やってみると数回で、すんなりと口を閉じてくれた😃母にとって、どっちがましなのかはわからないが、すんなりの方が表情は柔らかい☺

それが感じ取れるように先生の接し方を学んできてよかったと嬉し涙で帰途に就いたことがありました😌